2012年05月09日

ひな菊と財布

「つねに愛と経済の葛藤があるんですよ」とゆいちゃんが言った。
ぼくは葛藤するほど経済を持ってないのでつか経済概念が崩壊しているので
「へーーふしぎーー」って感想しかもてないんやけど
じゃあ愛と経済って何だろうねと調べたら中沢新一が
「経済は交換で愛は贈与」だと言っていたんが解りやすかった。

どっかの部族の酋長が全財産を海にぶん投げるあの儀式みたいに
ほんとただもー持ってるもん全部あげちゃうような行為を
震災からその後、募金みたいなカタチで僕らも試されたわけやけど
かあさんが子供に自分の命まであげちゃう贈与を
縁もゆかりも無い他人に、むしろ海に投げてしまえみたいな極端なことで
儀式化して繰り返し繰り返し自分らに刷り込んできたはずなんやけど
忘れてますねと茶をすする。

お金ないから子供産めませんよと女の子たちが口々に心配しとるけど
もともと子供って100%贈与で育つもんなんじゃないだろうか。
両親がお祝いくれてじいちゃんばあちゃんが入学金払ってくれて
友達が子供服のおさがりくれて地域がタダで保育所行かせてくれて
国がたんまり金くれて国連が支援してくれて
近所のおばちゃんが面倒見てくれて近所のおじちゃんが説教してくれて
となりのお姉ちゃんが遊んでくれてとなりのお兄ちゃんが悪い遊びを教えてくれて
全部もらいもんで育つんじゃないだろうか。

福島から避難してきたお母さんと話してて
「もーほんと意味わかりませんよ、なんでみんなこんなに良くしてくれて優しいんですか」
とゆっていたけど
もともと社会は経済とゆー交換よりも
そーゆーもんで回してきてたのぼくら忘れてたんでしょうねと茶をすする。

愛と経済の葛藤と言うより
経済の比重が大きくてバランスが悪いんやないかと思ってる。

愛が足らんとボスが言うのもよくわかる。
宗教はその愛を儀式や教義や生活習慣のなかで強固に刷り込むから強い
とあんたが言うのもよくわかる。

ぼくらはそーゆー強固な教義を持ってなくて
いただきますと手を合わせたり
日々のなかで生活様式としてそれらを刷り込んできたんんもよくわかる。
いえいえお気になさらずにと
日々の言葉使いのなかでそれらを刷り込んできたんもわかる。
だからぼくらの愛は教会ではなく日常の瑣末さの中に存在している。

無償の愛

という言葉の気恥ずかしさとうそ臭さを
も一度磨いて身に落ちてはっとする
宝石に変えて瑣末さのなかに置く作業が
作家の仕事なんじゃないかと思いはじめている。
posted by bambora at 12:34| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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