2013年04月17日

日々

彼岸への憧れがいつ頃はじまったのかはわからないけど
ああ、向こう側へ行きたい、行きたいと
例えば炊きたてのご飯をちっちゃな白い皿に載せて
父の神棚に備えて手を合わせるとき
蝋燭に火を共して
揺れる炎に父の声を待つ日々に思っていました。

佐渡島の春に
ざざんと寄せる波音を聞きながら
海の向こうにニライカナイがあって
そこから神様がやって来るのと
洗いたての木綿みたいに清純なお姉さんが教えてくれて
中学生のころ宮崎の海辺で
「いつか外国へ行ってみたし」とその遥かを眺めたみたいに
六号のお船に乗って彼岸へ行く夢ばかり見ていました。

別に死にたい訳ではないのだという事を確認するためだけに
月イチでビルの屋上に登って死ねない事を確認したり
愛しいものはみなあちら側にいるのだと遺書ばかり書き
大切な人が出来ると恋文の代わりに遺言を送りました。

片岡さんが亡くなってから
確かにずいぶん長らく狂っていて
その自分を治したくて物語りを書いていたんだと思います。

そして時が一番の薬だという名のままに
薄情なほど突然にそのかさぶたがボロっと剥げて
悲しみは別の穏やかな何かになりました。

今は鱗粉のように生きている私が撒き散らす
キラキラとした瑣末な出来事が愛おしく
彼岸は遥か遠くになりました。

それでも日々の合間にふと海に出会い
その向こうにニライカナイを想います。

身を残し骨を残して
一番軽い私が訪れる彼岸の正体は
透明な
人恋しさだと知るのです。




posted by bambora at 05:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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